降雪後の霞ヶ城(撮影日2012年1月22日)
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丹羽光重公は、霞ヶ城築城にあわせて 門の建設も行い、材料となる
樫の木を 領内全域に手を尽くして求めた結果、 箕輪村(現在の二本松市内)山王寺山の
ご神木を用い、この門を楼門として
立派に完成し、「箕輪門」と命名しました。
(昭和57年に再建)
また桜が咲くと、桜の名所となる。
秋になると、菊人形で賑わう場所となり 紅葉が彩る所にもなる。
箕輪門の場所はこちらから確認
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戊辰の役(戊辰戦争)で、
ふるさとを守るために、
若い命を散らした二本松少年隊を
顕彰する群像。
二本松市名誉市民であります
彫刻家・橋本堅太郎氏に依頼して
制作したものです。
平成8年7月28日建立。
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昭和10年文部省史跡指定
七代藩主・丹羽高寛公が、家臣の儒学者・
岩井田希夷(昨非)の献策によって、
藩庁前の自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針として、
一夜のうちに刻ませたものであると云われています。
意味・・・
「「お前(武士)たちの棒給は、
領民の汗と脂の結晶なのである。
つねに感謝をし、領民をいたわなければならない。
これに反し、領民を苦しめれば、
必ず、天の怒りに触れるであろう。」」
戒石銘の場所はこちら(Google Mapで確認)
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昭和51年二本松市指定天然記念物
樹齢三百年といわれている老松、「傘松」
または「八千代の松」ともいわれます。
ここは昔、霊松二本(鶴松、亀松)があり、
この山を二本松山と呼んで
旅人の目標となっていました。
これが、二本松の地名のもとになったという人もいます。
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昭和51年二本松市指定有形文化財
もともとは丹羽藩主時代、霞ヶ城内の庭園に
いくつかあった茶室の一つ「墨絵の茶屋」です。
天保8年(1837年)山崩れにより
墨絵の茶屋がこわれたので、
これを阿武隈川河畔に移して再建し、
藩主の釣り茶屋となっていたのを後に、
現在地に移し「洗心亭」と名づけたものです。
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戊辰戦争の直前まで藩内少年武士が
鉄砲の稽古をした場所で、
戊辰戦争に出陣した
隊員六十四名の顕彰碑を
紀元2600年(1940年)記念事業として、建立したものです。
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「あれが阿多多羅山、 あのひかるのが阿武隈川」
明治、大正、昭和にかけて 詩人・彫刻家として 有名な高村
光太郎が 最愛の妻・智恵子を偲んで
詠んだ「樹下の二人」の冒頭の句です。
昭和35年(1960年)に建立されました。
この自然石は「牛石」と呼ばれ、 畠山満泰が築城の際に、
いけにえにした牛が、石に化したものと 云われております。
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―日影の井戸―
「日本三井戸」の一つ、 「日影の井戸」があります。 千葉県
印西市の「月影の井戸」、
神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」とならび
称されています。建設は畠山氏築城の頃で あります応永年間(1400年頃)といわれ、
井戸の深さ16m、井戸の岩盤をえぐって、
さらに北に14mに達しています。
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―天守台跡―
現在立ち入り規制有
平成19年7月26日に
「二本松城跡」として国史跡指定と なりました。
この石垣は安土城の石垣を積んだ 穴太衆(あのうしゅう)とよばれる優れた、
石工集団によって積まれた。
平成になって発掘調査とともに
崩落を防ぐために、その同じ集団の
末裔により
積み直し再建された。
(カーソルを画像の上に乗せると
秋の紅葉の時期の画像が現れます。)
天守台跡の場所はこちら(Google Map)
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―土井晩翠歌碑―
旧会達製糸株式会社の社歌を作詞した晩翠は、
昭和24年に発表会のため、二本松へ来る。
花ふぶきの中を散策し、その情景を詠んだ。
昭和31年に歌碑を建立(こんりゅう)した。
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土井晩翠の詩碑の写真です。
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―トイレなどの施設紹介―
この写真は箕輪門入口から見て左側の
アスファルト敷きの駐車場にある
バリアフリータイプのトイレです。
車イス専用駐車場もございます。
こちらより奥の駐車場に、車イス利用者専用
駐車場がございます。(Google Mapsから
トイレ番号②のトイレです。)
安心して、公園に訪れることができます。
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その他施設・遊歩道
左上にあります写真のトイレの近くには
自動販売機があります。
また、城山中腹には遊歩道もございます。
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二本松観光協会
〒964-8601
福島県二本松市金色403番地1
二本松市産業部 観光課内
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FAX:0243-22-7848
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| Lastupdated:2011/01/30 |
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