幸田露伴文学碑

幸田露伴文学碑の写真

幸田露伴

幸田露伴は「五重塔」「運命」などの文語体(俳句や短歌で見られる表現)作品で文壇での地位を確立させた著名な小説家です。

概要

幸田露伴(本名・幸田成行)は、20歳になって文学を志し、北海道余市から上京の旅に出ました。
(この北海道から東京までの道程が『突貫紀行』の題材。)

明治20年(1887年)9月26日の夕暮れに、福島に到着。
ここで一泊すると郡山から東京への乗車賃が不足してしまうので、夜中歩いて郡山まで行こうと決め出発。

飲まず食わずで二本松に着いたのは夜半近くでした。
街は提灯祭り(当時は新暦9月に開催)で賑わう中、懐中わびしながらも亀谷坂頂上の阿部川屋で餅を買い、食べながら歩いたものの、体力、気力ともすでに限界でした。

道端に倒れこみ、こうもり傘を立て野宿を決意、いつか野垂れ死にをする時が来たら、きっとこんな状態だろうと思案し、口をついて出た句が、

「里遠し いざ露と寝ん 草まくら」

この句から筆名を「露伴」にしたと日記などで後述しています。また、文学を志した熱き想いと苦難の突貫道中を忘れぬよう、ペンネームの「露伴」を生涯大切にしたといわれています。

碑は亀谷まちづくり協議会が平成20年(2008年)2月に建立。
近くには、露伴亭というお店があります。

幸田露伴文学碑の写真
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松尾芭蕉 句碑(二本松市指定史跡)

松尾芭蕉 句碑の写真

高さ約1.3メートル、最大幅約1.1メートル、厚さ約25センチメートルの板状の自然石を用い建立されている。
風化および一部破損などで大変判読しにくい。
これは春鏡塚と題し、

「人も見ぬ 春や鏡の うらの梅」

の碑文と、建立者として蔵六坊虚来の名が刻まれている。
裏面には「題春鏡塚碑陰」として、芭蕉の略歴と虚来が建立したことを記し、末尾に「安永申之春 藤宗英識」とあり、安永5(1776年)に建立されたことがわかります。
藤宗英とは、当時二本松藩主の侍医であり文学者であった遠藤鹿山のこと。虚来の正体は明らかではない。

市内にある歌碑・句碑の中では最も古く、本市の文化史を考える上で貴重です。
当句は元禄5年(1692年)元旦に作られ、その意は「鏡の裏の模様の梅は、ひっそりと春の訪れを告げています。人が見もしない春とでもいうべきであろう。」と解されています。

千手観世音菩薩の写真

松尾芭蕉句碑がある亀谷観音堂は安達三十三観音 第十八番札所、千手院、千手観世音菩薩のある場所でもある。

問い合わせ

二本松市役所 文化課
TEL:0243-55-5154

その他

二本松駅の周辺には橋本堅太郎氏が作成した石像があります。

大宗旅館側にある、二本松少年隊石像
二本松少年隊石像の写真

高村智恵子像
高村智恵子像の写真
設置経緯:(案内板より)
市の依頼により、日本芸術院会員・彫刻家・二本松市名誉市民の橋本堅太郎氏が制作し、平成21年10月1日に建立された。
作品は眉目秀麗な安達太良山の上に澄み渡る青空を指さす、日本女子大学校時代の高村智恵子をイメージしている。(看板名には長沼智恵子)
作品テーマは、詩集「智恵子抄」所収「あどけない話」の一節にある。

飛翔
作品名「飛翔」の像の写真