高村智恵子(1886年~1938年)
概要
高村智恵子は、明治時代末期から大正時代にかけての当時としては珍しい女流洋画家で、精神を病んでからは病院で千数百点もの紙絵を制作しました。
夫である高村光太郎が智恵子との純愛を綴った不朽の名作『智恵子抄』で有名ですが、智恵子自身も芸術家としていくつもの作品を残しています。
また、光太郎と育んだ純愛の形も昭和の恋愛史の一つとして語られています。
そして、そんな智恵子が生まれ育ち、いつまでも愛してやまなかったふるさとがここにあります。
高村智恵子の年譜/愛と芸術の生涯
1886年(明治19年):0歳 | 5月20日、福島県安達郡油井村(二本松市(旧安達町)油井)に酒造業斎藤(のち長沼)今朝吉、せんの長女として生まれる。 |
1901年(明治34年):16歳 | 3月、油井小学校高等科を卒業。 4月、福島高等女学校(現:福島県立橘高等学校)に編入学する。 |
1903年(明治36年):18歳 | 4月、日本女子大学校に入学。油絵に惹かれる。 |
1907年(明治40年):22歳 | 日本女子大学校を卒業。洋画家の道を選んで東京に残り、太平洋画会研究所に学ぶ。 |
1911年(明治44年):26歳 | 9月、雑誌「青鞜」が創刊されその表紙絵を描く。 12月、柳八重の紹介ではじめて高村光太郎のアトリエを訪ねる。 |
1912年(明治45年):27歳 | 光太郎が智恵子に与える詩を書き始める。 4月、太平洋画会展に油絵2点を出品。 6月には、団扇絵展を開く。 9月、犬吠岬写生行。光太郎に出会う。 |
1913年(大正2年):28歳 | 9月、光太郎の後を追って上高地に行き、一緒に絵を描く。ここで結婚の意思をかためる。 |
1914年(大正3年):29歳 | 10月、光太郎詩集『道程』刊行。 12月、駒込林町(現在の東京都文京区千駄木)のアトリエで光太郎との生活を始める。 |
1915年(大正4年):30歳 | 窮乏の中でも充実した二人の制作活動が続く。 |
1918年(大正7年):33歳 | 5月、父今朝吉が没する。 その死は長沼家にも智恵子にも暗い影を落した。 結婚以前から肋膜などに故障があり、病気がちで一年のうち3、4ヶ月は郷里で過ごす。 |
1921年(大正10年):36歳 | 10月、光太郎が智恵子のために訳したヴェルハアラン詩集『明るい時』を刊行する。 |
1923年(大正12年):38歳 | 前年から翌年にかけてしばしばアンケートに答え、文章を発表する。 9月、関東大震災発生。 |
1929年(昭和4年):44歳 | たびたびの助言にも拘(かかわ)らず傾きかけていた長沼家が破産、一家は離散する。 |
1931年(昭和6年):46歳 | 8月、光太郎が三陸方面の取材旅行で留守中、精神分裂症の最初の兆候(徴候)が現れる。 |
1932年(昭和7年):47歳 | 7月、画室でアダリン自殺を計り未遂に終わる。 |
1933年(昭和8年):48歳 | 8月、療養のため光太郎と東北の温泉めぐりをしたが、病状はかえって進行する。 |
1934年(昭和9年):49歳 | 5月、母や妹一家の住む千葉県九十九里海岸に転地。 11月、ふたたびアトリエに戻る。 |
1935年(昭和10年):50歳 | 2月、南品川のゼームス坂病院に入院する。 |
1937年(昭和12年):52歳 | この頃から病室での紙絵制作が始まる。 |
1938年(昭和13年):53歳 | 10月5日没。死因は久しく蝕んでいた粟粒性肺結核。 遺作紙絵千数百点が残された。 |
1941年(昭和16年):逝去から3年後 | 8月、光太郎が詩集『智恵子抄』を刊行する。 |
作品集/概要
精神病に簡単な手工を勧めることがいいと聞いた光太郎は、当時精神分裂症で入院中だった智恵子に千代紙を持っていきました。
それが紙絵を始めるきっかけとなりました。
大変よろこんだ智恵子は千羽鶴を折りつづけました。
だんだん折鶴以外のものも折るようになり、色紙をはさみで切って美しい模様の紙細工を作るようになりました。光太郎いわく、その紙細工は『立派な芸術品』であったそうです。
それからは体調を崩さない限り、毎日、紙絵を作り続けました。
はじめは1枚の紙で作る単色のものでした。やがて色彩にこだわるようになり、智恵子が作る美しい見事な紙絵は千数百枚にもおよびます。
これらの数多くの紙絵は、全て、夫の光太郎に見せるがために創られたものだといわれています。
病のせいか口を閉ざしてしまった智恵子が紙絵作りに没頭したのは、それが光太郎に想いを伝える唯一の手段だったからかもしれません。
二人の芸術家が築きあげた純愛という名の作品に紙絵を通して触れてみてはいかがでしょうか。
※転載禁止※
これらの作品は現在智恵子記念館に展示してある智恵子の紙絵です。
菊 |
白い小鉢 |
シクラメン |
青い魚と花 |
葡萄 |
参考文献・・・ 高村光太郎 『新風土』 智恵子の紙絵(昭和14年2月) |
智恵子の生家・記念館
明治の初期に建てられた生家には、造り酒屋としての、新酒の醸成を伝える杉玉が下がります。
屋号は「米屋」、酒名「花霞」。2階には智恵子の部屋がございます。
智恵子が愛して止まなかった、「ふるさと」のその純粋さを残す町並みの中に、「智恵子」を生んだ生家が、当時の面影をそのままに復元されたものです。
智恵子記念館
病に侵された、智恵子の美しい紙絵や当時の女性としては美しい油絵等が展示してあります。
作品を通じた智恵子の言葉があなたにも聞こえてくるでしょう。
記念館のご案内
- 開館時間:9時~16時30分(入館は16時まで)
- 休館日:水曜日(祝日の場合は翌日)
- 年末・年始(12月28日~1月3日)
- 入館料金:(団体は20名様以上)
大人(高校生以上)410円(団体:360円)
子供(小・中学生)200円(団体:150円)
智恵子記念館
TEL:0243-22-6151
智恵子の生家へのアクセス
二本松I.C.から車で約10分、二本松駅入口バス停からバスで約10分、安達駅から徒歩で20分。