宮森城址の写真

二本松市(旧岩代町)にある宮森城址は、文明3年(1471年)、大河内修理(しゅり)が城を修築して、名を改めたのがこの宮森城です。
それ以前は四本松(しおのまつ)城と称しました。
元々はこの地を領地していた大内家のものであり、後に大内家は伊達家の傘下に入り小浜城とともに領地の護衛に役だっていました。
また、小浜城を下館、宮森城を上館ともいいます。

宮森城址の写真

本丸跡は神社として整備されています。
近くには、石垣が残っています。

杉の手前にある城跡の碑の写真

杉の手前には城跡の碑。
奥には「宮森家祖大内氏城趾」の碑が建立(こんりゅう)しています。
周りには、礎石も残されています。

宮森城の周りの史跡

御膳清水

御膳清水の写真

伊達政宗は小浜城に、父輝宗は宮森城に居城しました。

この清水は、輝宗公御膳清水として、それ以前より、歴代城主の御用水でした。

腹切岩

腹切岩の写真

1569年、当時の宮森城主の大河内備中が大内備前、石川弾正、寺坂信濃(四天王)等に攻められて滅亡する。

その折り、備中の甥(おい)、大河内宗四郎は、太刀を振るって敵中を切り抜けて城に入ろうとしてましたが、追手に敵が満ちて入ることが出来ず、取って返して搦手に向かったが、追いすがる敵に進退極まり、この石の上に登り腹をかき切って討死になりました。

稚児の墓

稚児の墓の写真

稚児は、宮森城主大河内備中の側室の子であるが、1569年、宮森城落城のとき、城内から母親が子を抱いて逃れでたが、敵将大内長門に発見され、子はその場で斬殺され母は囚われの身となります。

村人らは、この稚児の横死をいたみ、 手厚く葬った。墓はその遺跡です。

かっか石

かっか石の写真

1569年の宮森城落城のとき、稚児が斬殺された後、(稚児の墓を参照)稚児と共に逃れた母親が囚われ、大内備前の側室になることを強いられたが、死を決して応じなかったため、大内備前は、その節操(せっそう)の堅さに感銘し、遂に釈放した。

母親はこの石の傍らに庵(いおり)を設けて亡き夫(大河内備中)と稚児の冥福を祈り、生涯をここに終えました。

宮森城とその周辺史跡の場所


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