二本松市本町にあるこの門跡は、1834年に奥州街道道中に面するこの地(久保丁口)に築造された、堀をともなった大手門で、通称「坂下門」ともいいました。
天保3年(1832年)に幕府に絵図面を添えて願い出て、許可を得て建造した本格的な櫓(やぐら)門でした。
初代藩主丹羽光重が寛永20年(1643年)に入封(入府)した際に大手門建造を既に望んでいたが、財政事情から実現できなかったとされます。
代々藩主の悲願であった大手門が完成しましたが、その約30年後の慶応4年(1868年)7月29日に戊辰戦争の兵火により焼失しました。
現在、「亀甲積み崩し」技法による石垣を残し、築造年代の明確なものとして重要です。

大手門の現在

大手門跡の写真

大手門の現在の様子は、写真のように石垣が現存し、これが左右にあります(上の写真は、桝形入口左側石垣と大手門跡石垣)。
大手門の先は、久保丁坂と呼ばれる坂が続き、坂の頂上には久保丁門があったとされます。

久保丁坂

名称の由来は「窪地」が訛ったという説があります。
1655年(明暦元年)、城内に通じる切り通しを開削し坂の頂上に久保丁門を新設しました。
大手門と併設して、地名の石碑が建っています。

地名の石碑の写真

久保丁坂の写真
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この坂を越えると、霞ヶ城公園(二本松城)にたどり着きます。

関連項目

小沢幾弥の墓(二本松少年隊)

小沢幾弥の墓の写真

師の朝河八太夫(砲術師範で朝河貫一の祖父)とともに出陣し、共に重傷を負う。
師を背負いながら退去の途中、大手門前で朝河八太夫の絶命を知り、屍を手で掘り埋めたといいます。
その後土佐兵と遭遇したが、精根尽き果てたためか介錯を頼み、その場で絶命しました。

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