大隣寺の写真

概要

大隣寺は、初代長秀公の菩提を弔う為、2代、丹羽長重は、寛永4(1627)年、越前国の融法全祝大和尚を招き、白河の地に大隣寺を建立した。
融法全祝大和尚は、越前総光寺三世雪山どん秀禅師(※)
(読み:せっさんどんしゅうぜんし)を開山として迎え、自ら二世となります。
(※どん・・・「どん」は機種依存文字)

寛永20(1643)年、3代光重公は白河より、二本松へ国替となり、冬には大隣寺も二本松に移り、二本松藩主歴代菩提寺となった。
寺領は100石余りで、その後、方角などの理由から城下内において2度移転し、現在地の場所に移りました。
現在の本堂は文化8(1811)年の大改築によって築かれたもので戊辰戦争直後には、二本松藩庁の仮事務所や藩校などにも使用されました。
寺号は、初代長秀公の法名(総光寺殿大隣宗徳大居士)の大隣に由来し、寺紋には丹羽家の家紋「違棒(ちがいぼう)」を用いています。
(大隣寺説明板はこちらからご覧ください)
(大隣寺の案内板はこちらからご覧ください)

丹羽氏歴代画像 十二幅(二本松市指定有形文化財)(外部リンク:二本松商工会議所)
大隣寺には、丹羽家初代長秀から11代長富までの丹羽氏11代の画像十二幅が伝えられている。
(但し、2代長重の甲冑画像を含み、12代長国、13代長広は欠けている)
画像は全て鉄線描法によるものであるが、11代長富画像だけは線に微妙な変化を持たせている(特に袴などに見られる)。

柔らかで流れるような線は、質感・量感をも表現する優れた効果が感じとられる。
なお、三代光重画像は狩野常信(かのうつねのぶ)の筆によるもので、光重が深く帰依していた雲堂天岳上人の賛がある。
美術的価値はもとより、藩主の歴代画像が菩提寺に継承保存されていることは歴史的意義も深く、貴重である。

二本松少年隊・戦死の地(参道入り口)

二本松少年隊・戦死の地の写真二本松少年隊副隊長の二階堂衛守と岡山篤次郎は大壇口での戦い(大壇口古戦場を参照)の後、大隣寺の参道入り口で狙撃され戦死しました。
 篤次郎は、弾丸が腹部を貫通し、称念寺の野戦病院に搬送後、絶命しました。

二本松少年隊の墓

二本松少年隊の墓1 二本松少年隊の墓2

戊辰戦争殉難者の戦死群 霊塔とともに、二本松少年隊隊長木村銃太郎、副隊長の二階堂衛守と、少年隊戦死者14人の供養塔が建立されています。
また、旧幕府軍として戦った仙台藩と会津藩の墓も少年隊の墓に隣接して建てられています。
(案内板の画像)
(仙台藩と会津藩の墓)

丹羽歴代藩主の墓(旧二本松藩主丹羽家累代墓所)

丹羽歴代藩主の墓(旧二本松藩主丹羽家累代墓所)の写真二本松藩主であった丹羽家の初代光重公と、3代長之公~9代長富公までのお墓があります。
写真左から、8、4、3、6、5、初代、7代と並びます。9代目長富公の墓は、やや離れた所にあります。

 

9代、長富公のお墓

9代、長富公のお墓の写真

陰墓

陰墓の写真 丹羽歴代藩主墓地と隣接してあるのが陰墓です。
「陰墓」は、幕府の子が自分の生母を陰ながら供養するために築いたもので、墓標等を建てることは許されていませんでした。

 

 

その他大隣寺/フォト

山門跡

山門跡の写真

西国三十三観音像

西国三十三観音像の写真
(こちらの写真は33番目の観音様)

お問い合わせ先

大隣寺
二本松市成田町1丁目532
TEL:0243-22-1063

関連項目