大壇口古戦場の写真

大壇口に出陣した二本松少年隊は63名のうち22名で、戦死者は隊長木村銃太郎をはじめ16名、戦傷者6名であり、戊辰戦争史上特筆すべき一大決戦の地である。
ここで隊長は戦死、また少年隊を援護して壮烈な戦死を遂げた青山助之丞・山岡栄治の二勇士の奮闘の地でもあります。

大壇口の激戦

(※二本松少年隊140年顕彰~二本松少年隊~より抜粋)

二本松藩兵と板垣退助隊との最初の接触があったのは午前6時半頃で、大壇口陣地では遥か杉田方面から銃声が聞こえ、しばらくして、供中(ぐちゅう)方面(安達ヶ原近く)からも、砲声が聞こえました。

<中略>

銃太郎の命令が下り、岡山篤次郎と高橋虎治の精魂こめた速撃弾は3発とも敵の頭上で爆発、敵は慌てて散り、左右の山林に身を隠し、大砲と銃を雨あられと撃ってきました。
一方、民家にひそんだ敵を砲撃したところ、見事に的中し、民家51軒を貫いたといいます。
少年隊の砲撃の確実さには西軍も驚いたほどで、一弾一弾よく目標に的中したと後に西軍の隊将が語っています。

しかし、多勢に無勢、新式銃を使い、統制ある巧みな近代戦法の西軍は包囲態勢を整え、徐々に少年たちを攻め立てていきます。
奥田午(うま)之助が戦いの途中で戦死。
木村銃太郎隊長が左腕を撃ち抜かれ負傷。
「もはやこれまで」と退却を決断し、自ら集合の太鼓を打ち鳴らします。
敵は目前に迫り危険な状況となった時、追い討ちをかけるように敵弾に腰を撃ちぬかれ、その場で倒れました。
この重傷では帰れぬ、我が首を取れと、二階堂衛守副隊長に願います。
「押し問答する時ではない、早く切れ」と促し、副隊長は心を決め、銃太郎の首を切り落としました。
その瞬間、少年達は一斉に号泣したといいます。
そして少年たちは副隊長の支持に従い、泣きながらも銃太郎の屍(しかばね)を急いで埋めて、首を下げ持ちました。
隊長、副隊長指揮のもと、わずか25人の少年で交戦した。
大壇口の戦いは幕を閉じました。午前10時頃でした。
また、大壇口で顔面を負傷、その後郭内まで引き上げ、日暮れ頃に西軍に斬りかかりニノ丁(市歴史資料館よりほど近い久保丁の地名碑より上の坂道にある)
で戦死した、高橋辰治がいます。
また、副隊長は大隣寺前の参道で狙撃され即死しました。

アクセス

駐車場:なし

二本松市向原(JAみちのく安達グリーンセンターにほんまつ近く)

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大壇口古戦場 紹介写真

大壇口古戦場の案内板の写真
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お墓、二勇姿の碑の近くには案内板があります。

二勇姿の碑の写真
二勇姿の碑

木越安綱歌碑の写真
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1930年(昭和5年)、当地を訪れた陸軍中将の木越安綱が詠んだ歌碑が建立されています。
「色かへぬ 松間の桜 散りぬども 香りは千代に 残りけるかな」

忠魂碑の写真
二勇姿の碑、木村銃太郎の墓の上には、忠魂碑が有ります。
左側の大きな碑(忠魂碑)は震災の際に倒壊しましたが
現在は修復されました。

木村銃太郎の墓の写真
木村銃太郎の墓

大壇口古戦場から二本松城方面を見た写真
大壇口古戦場から二本松城方面を見る。山を越えるとすぐに城です。
(奥に見える橋は観音丘陵遊歩道の松岡御門橋)

大壇口古戦場から見た安達太良山の写真
大壇口古戦場から見た安達太良山

一つ目の入口の写真
こちらは一つ目の入口です。

目印になる碑の写真
駅から徒歩で歩いてきた方はこちらの碑を目印にしてください。
踏切を渡り、すぐ左側に入口があります。

旧奥州(陸羽)街道の写真
大壇口古戦場の下には旧奥州(陸羽)街道があります。

JAみちのく安達側の入口の写真
「JAみちのく安達」側からの入口です。

お問い合わせ先

文化課 文化振興係
TEL:0243-55-5154/FAX:0243-22-3147

関連項目