国史跡二本松城/霞ヶ城公園
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アクセス
百名城スタンプ
霞ヶ城のお城のスタンプは二本松駅舎内の観光案内所、または、にほんまつ城報館に設置しています。
- 観光案内所
- にほんまつ城報館
二本松城の主な見どころ
箕輪門
丹羽光重公は、霞ヶ城築城にあわせて門の建設も行い、材料となる樫(カシ)の木を領内全域に手を尽くして求めた結果、箕輪村(現在の二本松市内)山王寺山のご神木を主材とし、この門を楼門として立派に完成し、「箕輪門」と命名しました。
石垣と累々たる城壁、城門は十万石大名の威容を示していました。
戊辰戦争によって、灰燼(かいじん)と帰しましたが、再建の声が高まり、昭和57年(1982年)に再建されました。
少年隊群像
戊辰の役(戊辰戦争)でふるさとを守るために若い命を散らした、二本松少年隊を顕彰する群像。
二本松市名誉市民であります彫刻家・橋本堅太郎氏に依頼して制作したものです。
平成8年(1996年)7月28日建立。
戒石銘(国史跡)
昭和10年文部省史跡指定
五代藩主・丹羽高寛公が、家臣の儒学者・岩井田希夷(昨非)の献策によって、藩庁前の自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針とし、一夜のうちに刻ませたものであると云われています。
(意味)
「お前(武士)たちの棒給は、領民の汗と脂の結晶なのである。つねに感謝をし、領民をいたわなければならない。
これに反し、領民を苦しめれば、必ず、天の怒りに触れるであろう。」
洗心亭
昭和51年二本松市指定有形文化財
もともとは丹羽藩主時代、霞ヶ城内の庭園にいくつかあった茶室の一つ「墨絵の茶屋」です。
天保8年(1837年)山崩れにより墨絵の茶屋が倒壊し、これを阿武隈川河畔に移して再建し、藩主の釣り茶屋となっていたのを、後に現在地に移し「洗心亭」と名づけたものです。
丹羽神社
傘松の近くにあり、歴代藩主丹羽家が祀られている所です。
少年隊顕彰碑
戊辰戦争の直前まで藩内少年武士が鉄砲の稽古をした場所で、戦に出陣した隊員六十四名の顕彰碑を紀元2600年(1940年)記念事業として建立したものです。
新城館
少年隊顕彰碑と同じ場所にあった建物で天正期には本城的機能を果たし、重要な施設であったことが発掘によって判明しました。
記録の少ない中世二本松城の姿の一端が明らかになっています。
智恵子抄詩碑
「あれが阿多多羅山、あのひかるのが阿武隈川」
明治、大正、昭和にかけて詩人・彫刻家として有名な高村光太郎が、最愛の妻・智恵子を偲んで詠んだ「樹下の二人」の冒頭の句です。
昭和35年(1960年)に建立されました。
この自然石は「牛石」と呼ばれ、畠山満泰が築城の際にいけにえにした牛が石に化したものと云われております。
大小一対の牛石には、「あどけない話」の銅版がはめ込まれています。
また、周囲の円形野外劇場のイメージは詩人の草野心平が発案。
日影の井戸
「日本三井戸」の一つ、「日影の井戸」
千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」とならび、称されています。
建設は畠山氏築城の頃、応永年間(1400年頃)といわれ、井戸の深さ16メートル、井戸の岩盤をえぐって、さらに北に14メートルに達しています。
また日影の井戸からあじさいロードへ向かって、天守台下にある二本松城内でも古い石垣を下から確認することが出来ます。
本丸跡
平成19年7月26日に「二本松城跡」として国史跡指定となりました。
この石垣は安土城の石垣を積んだ穴太衆(あのうしゅう)とよばれる、優れた石工集団によって積まれた。
平成になって発掘調査とともに崩落を防ぐために、その同じ集団の末裔により、積み直し再建された。
搦手門跡
城の裏面にあたる門のことで、現在は石垣、および門柱を建てた礎石を残すばかりです。
この門は、二本松城始築時の慶長初期(1590年)頃に建てられ、その後に何度か修復改築されたことが絵図等でわかります。
一般的に、城は敵に対する正面(大手)の防備は堅固ですが、裏面(搦手)はそれに比べて弱い所からこの語の起源になっております。
搦手門近くの石垣
搦手門近くには写真のような石垣が残っています。
とっくり井戸
この井戸は、昭和15年(1940年)には「とっくり井戸」として知られていましたが、近年ではその正確な場所は、わからなくなっていました。
平成12年度の発掘調査によって再発見し、直径約92センチメートル、深さ約7.95メートルを測る自然石で築いた石組みの井戸であることがわかりました。
深さ3.95メートルのあたりから次第に広がり、底径1.4メートルの井戸底に達していて、この形状から「とっくり井戸」と呼ばれていたものと思われます。
二本松藩自尽の碑
日影の井戸の下にあり、ここでは、主戦論者であった家老・丹羽一学(いちがく)、城代・服部久左衛門(きゅうざえもん)、小城代・丹羽新十郎の3名が責任をとり、自尽(割腹)し、壮絶な最後を遂げました。
土井晩翠歌碑
旧会達製糸株式会社の社歌を作詞した晩翠は、昭和24年に発表会のため二本松へ参られ、花ふぶきの中を散策し、その情景を詠んだ。
昭和31年に歌碑を建立(こんりゅう)しました。
山田脩 翁(おきな)像
この銅像が建っている場所は、戊辰戦争後、明治6年日本最初の民間機械製糸の草分け「二本松製糸株式会社」が創立されたところです。
明治10年に単独渡米し、ニューヨークに直売所を設け、「二本松製糸」の名票を付けて、販売するに至りました。また、製糸業を通して地方の発展にも貢献しました。
彼の功績を後世に伝えるため、ゆかりの地に銅像を建立したものです。また、名に「翁」が名につく理由として、安部井磐根(外部リンク:二本松市ホームページ)・梅原親固と共に「郷里の三尊」といわれたことから「翁(おきな)」がついています。
大城代・内藤四郎兵衛戦地の地
城門を開いて敵勢に斬り込み、 獅子奮迅の末、壮絶な戦死を遂げた。
成田才次郎の戦死の地
重傷の身で西谷門から城へ向かう途中に長州兵と出会い、一瞬の油断をみて、敵将の白井小四郎を突き刺した後、その場で絶命。
出陣に際し、父の教えをけなげにも守った末の戦死でした。
戦死の地は箕輪門口から西へ向かった所にあります。
加藤口寸句碑
加藤口寸は明治から昭和にかけて福島県を代表する俳人。
教育者でもあり、郷土史研究家としも多くの功績を残した人物です。
昭和18年3月、門人たちにより建立されました。
句碑は七ヶ滝付近にあります。
旧奥州街道
昭和61年(1986年)「道の日」制定にあたり、歴史的な面影があり、古色豊かな旧奥州街道(写真右側に写る道)が「日本の道百選」の一つとして、建設省(現在の国土交通省)から選定されました。
- 二本松歴代藩主名一覧
- 花ごよみ
フジ:5月中旬
アヤメ:6月中旬
アジサイ:7月中旬
オオウバユリ:8月中旬
紅葉:11月上旬
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