高村智恵子/智恵子抄の紹介ページです
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―高村智恵子―(1886~1938)

―高村智恵子/概要―
高村智恵子は、明治時代末期から大正時代に
かけての当時としては珍しい女流洋画家で、
精神を病んでからは病院で千数百点もの
紙絵を制作しました。


夫である高村光太郎が智恵子との
純愛を綴った不朽の名作『智恵子抄』で
有名ですが、智恵子自身も芸術家として
いくつもの作品を残しています。


また、光太郎と育んだ純愛の形も
昭和の恋愛史の一つとして語られています。
そして、そんな智恵子が生まれ育ち、
いつまでも愛してやまなかったふるさとが
ここにあります。


(写真:「智恵子と光太郎」 無断転載禁止)


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これらの作品は現在智恵子記念館に展示(期間限定)してある智恵子の紙絵です。
※転載禁止※

作品集/概要

精神病者に簡単な手工を勧めることがいいと聞いた光太郎は、
当時精神分裂症で入院中だった智恵子に千代紙を持っていきました。
それが紙絵を始めるきっかけとなりました。

大変よろこんだ智恵子は千羽鶴を折りつづけました。
だんだん折鶴以外のものも折るようになり、色紙をはさみで切って
美しい模様の紙細工を作るようになりました。光太郎いわく、
その紙細工は『立派な芸術品』であったそうです。

それからは体調を崩さない限り、毎日、紙絵を作り続けました。
はじめは1枚の紙で作る単色のものでした。やがて色彩にこだわるようになり、
智恵子が作る美しい見事な紙絵は千数百枚にもおよびます。

これらの数多くの紙絵は、全て、夫の光太郎に見せるがために
創られたものだといわれています。

病のせいか口を閉ざしてしまった智恵子が紙絵作りに没頭したのは、
それが光太郎に想いを伝える唯一の手段だったからかもしれません。

二人の芸術家が築きあげた純愛という名の作品に紙絵を通して
触れてみてはいかがでしょうか。


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―菊―


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―白い小鉢―

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―シクラメン―

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―青い魚と花―

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―葡萄―

・参考文献

高村光太郎 『新風土』
 智恵子の紙絵(昭和14年2月)
以下は、高村智恵子に関する内容です。

高村智恵子・年譜(観光協会内リンク)

智恵子の生家・智恵子の杜公園(観光協会内リンク)
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